私たちが写真を撮りつづける理由を考察してみる
初めまして、大阪で写真を嗜んでおります、橋本優<@yuhashimoto_713>と申します。
本記事では、私たちが写真を取り続ける理由について考えていきます。
写真を始めたきっかけ
私は現在、大阪の写真の専門学生2年でバイトをしながら、主にフィルムで写真を撮り続けております。
写真歴は3年ほどです。フィルムを始めたのは今年に入ってからです。
写真を始めたきっかけは、私は幼稚園からサッカーをしており、高校に入って大きな怪我をして試合に中々出られない日々が続いておりました。
仲間が試合しているのをただただ見ているだけの日々に嫌気が差し、自分にも何かチームに貢献できないかと考えた結果、皆のかっこいい姿を写真に収め、SNSなどのアイコンに使ってもらい、喜んでもらおうと思ったのが始まりでした。
そこから私は写真というものにハマり、もっと学びたいと思い、高校を卒業して専門学校に入学して今現在学んでおります。
写真とはなんだろうか。
ここからは、私が写真に対して思っている事を話していきます。
“写真とは”
私だけではなく、恐らく写真を撮られている殆どの方が悩まれている事だと思います。
答えが出そうな時、写真は再び姿を潜めてしまう。
私にとっての写真を一言で表すのであれば、精巧な絵日記のようなものだと思っております。
自分の撮った写真を見返してみると、その時の前後の記憶が蘇ってきます。
ただ、それだけなのだと思います。写真は自らに語りかけ、すぐに存在を隠してしまいます。
これは自分自身が悪いというものではなく、考えすぎという事なのかも知れませんですが、考えないと行動はできないので難しいですよね。
自然体のまま、写真を撮れる人間になりたいです。
水の写真が多くなる理由
少し話を変えて水の話をしましょう。
私を含め、写真を嗜んでいる方々は必ずと言っていいほど水や海の写真は多くなります。
なぜ、あの透き通った色の無い物体に惹かれるのでしょうか。
私なりに考えた結果、それは光との相対的な関係性から生まれるものだという事です。
海の写真
海を例に挙げると、海の写真で1番多い写真の時間帯は昼過ぎから夕方だと思います。
夕日が水面に乱反射し、煌めいている姿に私たち人間は心を動かされてしまいます。
海をぼんやり眺めていると、考え事を忘れ、落ち着きますよね。きっとそれは水と光が私たちの心に直接何かを語りかけてきているのです。
その何かは僕にも分かりません。
ファインダーを通して見る記録
自分の目というファインダーを通して見ている世界を記憶の記録として永遠に残す。
これが1つの写真の在り方と言うものなのでは無いでしょうか。
私が好きな写真というのは、自分がイメージしていたものを遥かに上回ってくるものです。
イメージを超えるのは偶然性、運が必要になってきますが、それだけでは面白みが無くなってしまいます。
常に新しい刺激を求めている私は、瞬きの度に過ぎていく情景に目を逸らさず向き合っています。
連続した写真が動画であれば、今目にしている光景そのものが全て静止画であると考え、その中の1フレームを切り取り、自らの記憶を具現化したものが写真で、そこに意味を見出す作業はとても難しく、面白いですね。
きっとそこには愛があり、ドラマがあって、感動するのだと思います。
偶然が生む写真には”何か”がある
偶然。それが生む写真は私たち表現者に”何か”を語りかけています。
その”何か”は人によって違います。
自分自身が写真と向き合い、これからどのような表現をしていくのか。
写真は何のために撮っているのか、誰に向けて写真を撮って発信しているのか…
答えの出ない旅が始まります。そこには人との出会いや別れもあり、世界の目撃者になります。
手の写真が多い理由
手や花の写真が多い理由は、誰にでも身近にあるものだからだと思っています。
例えば手は、私たちの身体の一部で、1番よく使っています。
人間の外見や内面、触れようとする情緒に駆られるのは全て手から始まっています。
手の可能性は無限大で、顔が見えづらいこのご時世でも、手を使ったジェスチャー、または手話といったコミュニケーションでも大きな役割を果たしています。
花は色鮮やかな中に儚さを感じ、自らが俯瞰的に写真に残そうとしても、何故か窮屈に感じてしまいます。
彼らは生きており、その有り余る生命力は写真から溢れてきています。
ポートレートと少し似たようなものがあるのだと思います。花は枯れてもドライフラワーとして生き続けることができます。どんな形になっても愛される生き物で、見習いたいものです。
最後に
長々と写真について語ってきました。
ここまで見て頂き、誠にありがとうございます。
写真を撮るのに機材や技術は関係無いと思います。
私が主に使っているのは写ルンですという軽くて持ち運びやすい1400円程の使い捨てカメラです。
どんなカメラでも様々な表現ができます。
私の人生で輝きを放つその一瞬を逃さずシャッターを切り、追求し、悩み、もがき苦しむ事が私にとっての”写真を撮る”という行為で、答えの出ない永遠の旅に出かけています。
最後に、ここに1つの言葉を残して終わります。
「私は死ぬ最期まで、次は何を撮ろうかなと思って死にたい。」
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